木曜日, 1月 17, 2008

13年前の今日


13年前の今日1月17日
明け方突然の「グオォォォ〜!!!」という地響きとともに下から突き上げるような激しい揺れを感じた。
眠っていたはずだが、何故か地震の最初の瞬間から記憶がある。

「地震だ!」ととっさに気付いた僕は横に寝ていた当時1歳になったばかりの長男の上に覆いかぶさる。
(直後に妻も長男をかばおうとしてきたが 僕の方が先だった ----- いまだに唯一の自慢です)
揺れの直後から停電したため、照明器具の常夜灯も街灯も消え、まさに真暗闇の中での恐怖の十数秒でした。 報道では十数秒と報じられていますが 僕にはすごく長い時間に感じられた。
大地がとてつもなく大きな力でねじ曲げられて 壮絶な唸り声を上げていたように記憶している。
家の中のいろんなものが倒れ、ぶつかり・・・あらゆるものが同時に唸り、悲鳴を上げていたようなそんな一瞬だった。
(妻の話では僕自身が「うおぉぉぉぉ〜〜〜!!!」と叫んでいたらしい)

普段から枕元にマグライトを置いていた僕は 手探りでそれを見つけ、室内を照らしてみた。

足下のわずか数センチのところに鏡台が倒れていて、隣のDKでは冷蔵庫が食卓テーブルの普段息子の座っているイスの上に倒れ込んでいた。(食事時だったら息子の頭部直撃)
食器棚も倒れ、中のものは粉々。一緒にいれてあったWhiskey, Ginなんかもボトルが割れ中味がフロア中に広がっていた。
ガラスや食器の破片を踏まないようにマグライトの光を頼りに玄関まで辿り着く。
玄関が開かない!
どうやら地震で歪んでしまったようだ。
力任せになんとかこじ開けて外に出る。
外はまだ街灯も停電したままで、日もまだ昇っておらず、街中で体験する初めての真暗闇!
近所の人も何人か外に出ていて少し言葉を交わしたが、一体誰と話したのか顔が全くわからない。
駐車場にとめてあったクルマは幸い無傷だったので、家族3人で近くに住む両親のところに向かう。
幸い両親のところも怪我もなく無事だった。

テレビで情報を得ようとしても停電しているので全く状況がつかめない。
クルマのラジオを聞いてもまだ何の情報もない・・・(今から思えば当たり前の話ですが)

そうこうしているうちに日も昇り、余震が続く中、徐々に被害の状況が見えてきた。
「こりゃぁ結構ひどいな・・・」と思いつつ、その日 撮影が予定されていた事を思い出し、尼崎のホテルに前夜東京から泊まりに来ていた編集部のU氏に連絡とる。川西市のN先生にも連絡をとり、周りの状況もわからないまま撮影現場に向かう事になった。

尼崎から川西までの南北の道、信号は全部停電して消えてました。
道の両側の民家は ほとんどが瓦が落ちていました。
主要幹線道路だったので 優先になるためほとんどノンストップで現地到着。
普段の半分の時間で着いてしまいました。

当日朝に届く予定だった撮影予定の花が「この状況では時間に間に合わないかも」という事で、近くのホームセンターへ男3人で買い出しに行く。
停電のため店内を軽トラックのヘッドライトで照らし、人々が緊急用の懐中電灯や電池、ロウソク、使い捨てカイロ等を買い求めているような状況で 我々だけが台車の上にパンジーのビニールポッドをいっぱい並べ「先生、赤いパンジーこんなもんでいいですかね?」「いや〜、春らしくするにはもう少し多い方がいいで。あと10個追加やな」などと今から考えるととんでもない行動をしていました。

繰り返される余震の中、15時頃まで撮影を続け、やっとそのころになってテレビが映るようになっていました。
神戸の長田区の状況が映し出され「結構被害大きいな」「死者100人ぐらい出てるで」などと言っていたのを思い出します。
撮影終了後、帰宅途中に各地から応援に駆けつけた消防車に多数遭遇しました。
名古屋からの消防車に並んだ時「とんでもない事になっている」と初めて気付きました。

意外と被災地の真っ只中にいる人間は 被害の全体像が把握できないものです。

結局 撮影済みフィルムは万一の事を考えて東京へ持って帰ってもらう事にしました。
(後で聞くと 大阪の現像所、地震の影響で3日ほど稼働できなかったそうです)

東京行きの新幹線はその時点では不通状態でしたが、辛うじて翌朝 新大阪から東は復旧しました。

2日後、やっと大阪の事務所に行く事ができましたが ここも結構揺れたらしく事務所内ぐちゃぐちゃでした。
幸いカメラ類の撮影機材はキャスター付の頑丈なスチールラックに積み上げていたので、ラックごと移動していて倒れたり落ちたりしているものはありませんでした。これは本当にラッキーでした。

その翌日、昼夜を問わず襲ってくる余震の事を考え、妻と息子 そして僕の妹と当時3才の姪っ子を妻の実家の沖縄に避難させる事にしました。
伊丹空港へクルマで送って行ったのですが、途中道路や橋が通行止めになっていて 道がわからなくなってしまいました。
出発時刻も迫っていたので あせって飛行機が離着陸している方向に向かって迷いながら空港に辿り着いたような記憶があります。


地震の数カ月前に内装をリフォームした住まいも半壊状態になってしまいました。
でも身内で誰一人怪我人がでなかったのが幸運でした。

神戸の方では本当に多くの方が被害に遭われました。
友人や先輩などで 御両親や身内を亡くされた方とかもいらっしゃいました。
彼らの事を考えると 我々は本当に「無傷」状態だったと思います。

それから1ヶ月ほどの間、上水道が復旧しない西宮・芦屋などの知人宅へ 交通規制の解けた20時以降 毎晩のようにポリタンクに水を汲んで順番に配って回ったのを思い出します。

あれから13年・・・。
中二の長男でさえ当然とはいえ、地震の記憶はないという。
高一の姪っ子は「巨大な怪獣がやって来た」ような恐怖心は覚えているらしい。
追悼・慰霊・鎮魂の目的で始められた神戸ルミナリエもその初期の意味合いが薄まり 観光イベント化してしまっている。

いつまでも過去にしがみつく事もないと思うけど、せめてこの日だけは「あの日」を思い出す日にしたい。

あの頃 被災地の人たちはお互いに助け合って生活していたと報道されていたし、僕も実際そういう風に感じていた。(いわゆる火事場泥棒は他所から来た奴の仕業らしい)
でもまた今、以前のような「冷たさ」に戻ってしまったようにも感じられる。
なんか残念・・・。

あと1時間ほどで「あの瞬間」。
もう二度とあのような事が起こりませんように。

震災で亡くなられた多くの方々に ........... 合掌。